401号 発進塔:生と死の狭間に

掲載日:2013年10月01日

近年高度先端医療が急速に進歩・普及し、人は長生き出来るようになった。結構なことである。しかし反面、終末期医療には虚しさを感じている。何かが足りない。私はそれが宗教であると考えるようになった。特定の宗教という訳ではない。

本来宗教というものは、生きている人を救う為に生れたものである。ところが日本の主流である仏教は葬式仏教化しているように思う。勿論例外はあり、生者に向き合っているお寺もある。欧米では終末期になると、あるいは日常的にでも牧師さんが病室を訪れて心のケアを行っている。若し、日本でお坊さんが袈裟がけで病室にでも現れたと想像してみよう。多分未だ早いよと叱り付けられるのがおちである。その証拠に私は今だかつてお坊さんが病室を訪れるといった光景に遭遇した事がない。生きている内は医師、亡くなったら僧侶と分業化されているようである。今後の多死社会にあってはなおさら、医師も僧侶もお互いの分野に踏み込んだ対応をする必要があるのではなかろうか。新たなしかもレベルが高い専門職があってもいいと考える。

しかし差しあたっては医師が宗教や哲学を学び、宗教家や哲学者が終末期医療についての造詣を深めてもらうようにしては如何だろうか。

東北大学では既に臨床宗教師の養成に取り組んでいると過日新聞に紹介されていた。

ところで六十五歳以上の人口が七%台になると、高齢化社会といい、それが十四%を超えると高齢社会という。近年都市も高齢社会になりつつあるが郡部ではその比率が三十五%というのも少なくない。超高齢社会である。これには長寿に加えて少子化と若者の都市部への流出も起因しており、この傾向はますます顕著になっている。

人口減少と多死社会が同時進行しようとしている。国の推計によると、所謂僻地と呼ばれている地域が限界集落となり、やがて消滅してしまうと考えられている所が全国で二万カ所あるとされている。

だが過疎化を悲観的にばかり捉える必要はない。開発のテンポが鈍り、自然は復治する。少し辛抱するだけで安心して心豊かに生活できる世の中になっているかも知れない。

意固地

先日、学校に奉職していた父親が最近意固地になり、他人のいう事に耳を傾けようとせず、周りの者が因っているという相談を受けた。歳を取ると普通は立ち振る舞いは悠然とし、心穏やかになるのでは、という問いであった。

確かに年を重ねるにつれ、江洋とした雰囲気を醸し出す人もいる。しかしそれはきわめて稀であり、大方の人にそれを期待するのは無理な話である。意固地さは年々増してゆくのが一般的である。

意固地に似た言葉に偏屈とか頑固という言葉もある。微妙に違いがあるが、いずれも生まれつきの性格が多分に影響している。それが諸々の条件が加わって抑制がきかなくなったものだと考える。

参考までに述べてみるが、孔子は晩年に自分をふり返り、「私は六十才になった頃には、他人の教訓や忠言も耳に逆らう事はなかった。さらに七十才になると、自分の欲するままに言動してももはや軌道を外れる事は決してなかった」と言っている。

修業の極致であろう。

一貫グループ会長
永野 義孝

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